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人はなぜ、旅をするのか ~原体験編~1/2

いきなり哲学めいた題名に戸惑われてる方も多いだろう。これは私の大学院生活の入り口となった問いである。

前回はこのサイトで旅行に関する発信がしたいことを書いたが、今回書くのは「学問」という見地から観光に接しようと思った背景だ。

いきなり学術記事を書くより、まずは背景を語った方が読み物としても面白いと考えた。ライターがどういう人間か知った方が面白いからな(はいそこ、自己満とか言わない)見ず知らずの一般人Aのそんな自己満話を聞いても「しらねえよ」となるのがオチだろう。だが何かの縁だと思って読んでもらえると嬉しい。

さて、ここからは私が旅を続けてきた理由を述べる。

親によると0歳のころから毎年のように旅行していたらしいが、どこに行ったかをはっきり覚えている旅行は5歳のころだ。フェリーに乗って北海道へ行った。

間の悪いことに旅行の前日に私は高熱に浮かされていた。そのおかげというべきか、両親は私の看病のために高価な個室をとってくれた。高熱と豪華な個室のおかげでこの旅のことが強く印象に残っているのかもしれない。知床・釧路・小樽に行ったことは覚えている。どれもすごく楽しかった。だが、旅行する理由はなかった。なぜなら発案した両親についていくだけだったからだ。

このように、幼少期から数々旅行はしていたが、その時の私には目的などなかった。目的を持ったのは小学生6年生の頃だ。

当時、私はいじめにあっていた。所属グループでNo2か3の地位にいたが、突然グループ全員から無視されるようになった。そのグループ以外に友達がいないわけではなかったが、それまで毎日遊んでいた集団以外とは放課後まで一緒に時間を過ごすことは少なかった。

そんな私の心を埋めてくれたのも、広い意味では旅行だった。

自転車に乗りながらグループのボスの家の前まで来た。寂しさからきた行動だった。ただ仲間に入れて欲しかった。しかし、結局相手にされないんじゃないか、なんでこんな理不尽な仕打ちを受けないといけなんだという怒りが価値、呼び鈴を鳴らすことはなかった。彼の家から離れ、全力で自転車をこぎ始めた。すると、普段は電車でしか行けないところまで到着してしまった。

この時、私は電車を使わないといけないところに自分の足で来たという事実に興奮した。その時の感動を味わうために次の日も同じところまで自転車で行った。

その次の日は方角を変えたりしてどんどん自分の行動範囲を広げていった。自身の到達範囲を広げることに私は面白さを見出したのだ。

続く

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